わしが教えたる!父と娘の中学受験

塾に行くと遊んでくるだけになるに違いない小学5年生の長女とけ(愛称)に,何を思い立ったか受験指導を始めて没入している父と娘の記録(たまに別の話題も,そりゃぁ・・)

読書感想文-蜘蛛の糸-(ええ加減にも程がある)

 連休的なこの時節,読書感想文が宿題として課されることも多かろうと思います。

 我が長女,とけ。課題図書は蜘蛛の糸。何時間もかけて書き殴っているのは,しょうもないあらすじ的なものの羅列。くはっ!大切な時間をだらだらと使って,こんなものを書くのに何時間もかけてからに!わたくしは激しく言い募りました。

 お前なぁ,読書感想文ちゅうのはな,その名の通り,読書した感想を書くわけ。そりゃな,短い本ですぐに読めたので固いいすでも大丈夫でしたとか,字が少し小さかったです,とかな,そういう感想を書いてないのはえらいけどな,あらすじばっかり書いてもそれは「感想」文やないやろ?!

 ええか,こういうもんは,がががっと書いたらええねん。感想やな。蜘蛛の糸な。待っとれ。わしが10分で書いてきたる。悪いお手本にせい!とわめきちらして,パソコンに向かい,ダダダッと打って,プリントアウトして,ほれ,こんな感じで書けばええんや,と。手渡したのが下記(とけの感想は,難しい漢字とかあって,読めない,で終わり・・・)。

 よい子のみなさん,時間がなかったら,参考にしても良いですよ(うそ)。

 

 蜘蛛の糸は読書感想文対象作品大賞に選ばれ続けている作品である。小学生にでも読めるような文体と文量と,分かりやすそうな寓意が込められていそうなことにその理由は自ずと求められる。そうして量産される読書感想文は,総じて,お釈迦さまはカンダタをもう一度試そうとなさったのだ,カンダタは,自らを犠牲にしてでも他の地獄に落ちたやからをも併せて救ってやるべきであった,という論調である。中には,自分ならきっとそうする,と言い切る猛者も少なからずみられる。小学生の道徳心は,釈迦も及ばぬ高みにあるようである。

 しかし,考えてみたらどうか。自分の命と引き換えに,地獄に堕ちた者らを蹴落とすことのどこに責められるところがあるのか。自分自身が苦痛の限りからまぬがれるために,ただひたすらにそのことのみを考えることの,哀しくも,なんとまっとうなありようであることか。釈迦が行った行為は,我々人間が行ったものとして考えれば,例えていえば,虫かごからひとり逃げようとするバッタは自分勝手とみなしてその足をへし折るが,もし最後に出てきたら殊勝なバッタとして逃がしてやる,というような「情けのかけよう」いや,賭けよう,とでもいうべきものにしか見えない。自身の生に執着する,そしてそれが「善」である存在として作られた衆生を,愚弄にするにもほどがある悪行冒涜である。カンダタの悪行がそれに価するならば―それはたしかにそれに価しよう―地獄へやれ。蜘蛛一匹生かしたことを善行と思うなら―私はそうは思わない―天国へやればよい。仮に迷うのであれば,彼に選別者の資格はない。

 私がカンダタであったなら,ひたすらに登るだろう。すでにこの説話のようなことを聞きかじってありがたいことに知恵もついているわけだから,自分が登った後のクモの糸を巻き取って,他の者の手の届かないようにすることを忘れないだろう。登り切ることができたならば,釈迦の襟首をつかんで喚き散らすだろう。虫けら扱いしやがって。おまえにおれの苦しみがわかるのか。分かっていながらこのような所業するのが釈迦のありようか。おれは蜘蛛ならば助けもしようが,お前のような者に慈悲をかけることはしない。ここがおまえの意のままになる天国地獄でなかったならば,地獄に落ちるのはきっとお前の方だ,と。そのことを考えて,終わることのない己の生を悩めと。

 釈迦は,「お悲しそうな顔」をして何か空虚で抗い難い力によって私を再び地獄に突き戻すだろう。そして,そうすることの恐ろしいほどの傲慢さを,顧みることもないだろう。釈迦をある種の権力とみるとき,そこに,非常な気味の悪さを感じざるを得ない。