わしが教えたる!父と娘の中学受験

塾に行くと遊んでくるだけになるに違いない小学5年生の長女とけ(愛称)に,何を思い立ったか受験指導を始めて没入している父と娘の記録(たまに別の話題も,そりゃぁ・・)

俳句の解釈(「風流」に対する共通認識が必要)

 俳句。正しく解釈しなければなりません。

 これは,評論文は当然のこと,詩歌でも,小説でも,理解は正しくあらねばならず,自由に読んでよい,というのは,正しく理解した上で,人それぞれの感じ方をしても良い,ということです。

 ここ,間違ってはいけません。

 俳句や短歌が,やはり難しいですね,正しく理解するのは。

 それは,作品自体が短いから,そこに描かれている情景以外の情景や心情を,日本人の「共通認識」で補う必要があるからです。そのためには,「共通認識」(風流を理解する心,といってよいでしょう)はキチンと学ばなければなりません。

 

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

 柿を食べていたら,法隆寺の鐘が鳴っているのが聞こえた,というだけのことですが,ここに趣(風流)を感じなければならない。自然と感じられてくるのが普通なんですけど,小学生には難しいかもしれませんね。

 

 季節は明示的には書かれていませんが,秋でしょうね。そうそう,季語がある。天候は書かれていませんが,雨がざーざー降っているような情景を思い浮かべてはいけません。秋晴れの下で,気持ちよく食べています。

 鐘の音量は書かれていませんが,そんなに大きくないに違いありません。あ,聞こえた,という程度でしょう。

 そうすると,古い都である奈良。気持ちの良い秋晴れ。遠くから聞こえる鐘の音。あ,なんか良いなー,と。そういうことです。

 

 俳句は,素直に読む。間違っても,独自の解釈をしようと思ってはいけませんよ。あらぬ方向へ行っちゃいますからね。

 

 例示してみましょう。

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺という歌がある。風流の人による「柿ならし」というあそびが行われていて何と風流なことだなぁ,ということで詠まれたものである。柿ならしというのは,渋柿(昔は渋くない柿はなかった)を一人がくうと,もう一人が鐘を打ち鳴らさなければならないという,昔の風流の人のあそびである。

 もちろん,昔の風流の人といえども渋柿などくいたい訳がなく,なぜこれをくうかというと,もう一人に鐘を打たせなければならないからである。昔の風流の人といえども鐘など打てば和尚さんに怒られることになるから打ちたくはないが,なぜ鐘を打つかというと,もう一人に渋柿をくわせたいからである。一人が柿をくえばもう一人が鐘を打たなければならず,鐘を打つと柿をくわなければならないというルールなのである。一人が渋柿をくい,「もれ,柿くいける」というと,もう一人が「もまい,柿くいける」と応えて鐘を打ち,「もれ,鐘打ちける」と宣言し,もう一人が「もまい,鐘打ちける」と応酬し,これを和尚さんが来るまで続けるのである。かわりばんこにするのが風流である。「もれ,柿ふたつくいける」,「もれなんか,3つも打ちける」などとやりだすと,ゴンゴンうるさくて,無粋の極みである。

 

 


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