わしが教えたる!父と子の中学受験

2022年受験の長男(ぽーやん)が麻布かどっかに入るまでのお勉強をがっつり後押し。2019年受験の長女とけは塾なしで乗り切りました。

国語起死回生一案

 ぽーやん、国語以外はSコース内偏差値も60を一応安定的に維持し、4科総合でもまぁ、コース内偏差値60を維持することも難しくなくなってきています。
 
 しかし、国語だけはどうにもならない状況で、点数とか偏差値とか、いろいろ、いやなもの見てしまった感を毎週感じさせてくれます。
 一時、あれま、意外といけるようになったん?と思うこともあったのですが、幻覚だったようです。

 今までも、いろいろと取り組んできました。
 音読したり、要約したり、言葉をせっせこ覚えたり。
 しかし、即効性もないし、飽きてくるし、時間もかかるしで、面倒くさい感がどうしても出てきて、なし崩し的にやらないようになっていき・・・

 しかし、このままではいかん。
 来るべき精神的成長を待てばよいのであって、それまでは精神年齢にあまり関係のない分野(算理社)をやっていれば、そのうち国語まで知らんまにできる奴になってくれているだろうという諦観もありました。
 しかし、算理社が一応できるようになってきたこと、もう5年生の秋であって、具体的な予定もない精神的成長なるものに賭けている場合ではないことからして、国語を放置することは絶対にできません。
 夏休みには国語を結構時間を取ってやりましたが(で、ちょっとした効果らしきものもありましたが)、まだ十分に固まってはいなかった。
 学校・塾が始まり時間もないですが、何か手を打たなければならない。

 考えました。
 よく考えました。
 何をやればいいのか。

 で、結論に至りました。
 簡単なことでした。

 算理社がなぜできるようになったのか。

 繰り返したからです。
 それ以外には思い当たりません。
 繰り返す。
 新しい問題をせっせと与えるのではなく、できた問題もできなかった問題も、繰り返す(もちろん、できなかった問題の方が重要)。
 これで実際にほかの教科は伸びてきたわけです。

 考えたら簡単なことでした。
 うわー、なんでこんな簡単なことに気が付かなかったのか。
 国語だけ同じ問題を繰り返すということをしていなかったじゃないか。
 勉強方法の違いがあって、国語だけ成績が伸びないのであれば、ほかの教科と同じようにやってみればいいだけの話じゃないか。

 国語は同じ問題をやっても仕方がないという思い込みがありました。
 ある面でそれは間違いではないかもしれないが、やっぱ、間違いだったに違いない。
 算数だって、できなかった問題について解説をして、分かったか?おう。みたいなことでスルーすることはないはずです。
 同じ問題をやっても仕方がない説には、合理的根拠がない。
 新しい文章に触れさせることも大切だが、それは、毎週毎週いやでも新しい文章を読まされることにはどうせなる。だって、予習シリーズに2つ、基本演習問題集、演習問題集、応用演習問題集、週テスト過去問で2つと、7つも新しい文章での読解問題をやることになる。
 しかも、概ね、典型的な文章の題材にはもう触れている。

 記述問題。
 ある文章を題材にして記述する。直しをして、ちゃちゃっと書き直す。ちょちょっとしゃべって、「な、分かったかコノヤロー。今度からはこういう風に書くんやぞ」、「グッチョス(分かった、という意味に理解していました)」などという阿呆なやり取りをして、ああ、今日も国語を頑張ったぜぃ的な独りよがりをしていました。
 そして、再度解き直すということはありませんでした。良質な予習シリーズ関連問題集は、二度と触れられる予定もないままに葬られていく。
 しかし考えてみれば、同じ文章と同じ問題で、じゃぁ、明日解けるのか。1週間後に書けるのか。
 おそらくできないでしょう。
 できないのであれば、それは血肉となっていないことの何よりの証左ではないか。
 
 ここだ。重要なのは。
 こういう根拠でここに着眼し、ここをこう抽象化して、こんな感じに言葉を入れ替えて、文章を整える。
 この作業を、同じ題材で繰り返しやらなければ、確固たる定着は期待しえない。少なくとも、ぽーやんのような凡才には。
 分かったような気になって終わりになっていたのです。
 
 記号選択でも抜き出しでも同じことです。
 そりゃ答えを覚えてしまうことも多いだろうけれども、それでも結構。
 次にやらされる時に備えて、この記号を選択した理由を理解しておこう、ここを抜き出してきた目の動きをちょっと意識しておこう、みたいなことに、子どもは絶対になるはずだ。
 次にもう一度やる、ということが分かっていればこそ、次にやる時に楽をしようと、きちんと理解しようとするはずだ。それで、アウトプットの方法も自然と身にもついていくはずだ。
 インプットだって、1回目には読めていなかったところが、2回目以降、さっと目を通すだけだったとしても発見することがあるはずだ。
 これこそが時間差精読というものであって、真の精読である。
 大人だってそうだ。同じ文章を時間が経って読み直してみると改めて気づくことも多々ある。
 そうして、精読というものの本当の意味を知ることになる。

 よっしゃ!
 繰り返すぞ!
 思い立ったが吉日、ヨメハンに、国語の演習問題集もう一回コピーしてくれと懇願しまして、ぽーやんにも、国語も繰り返しあるのみである旨宣言。
 面倒だと思うだろうが、だまされたと思ってやってみよう。結果は保証する。

 時間を要することでしょうけど、慣れてきたら、演習問題集の一問は15分くらいでできるようになるだろう。
 解答欄を見たら自然と手が動くようになるはずだ。それが国語という科目の解き方だ。

 読解問題となると、ボケーっと文章を見ている(読む、ではなく)というのが普通になりつつある。ほかの科目でそんなことあるか?社会でリード文眺めてぼーっとしてることなんてあるか?
 国語も、手を動かしながら読むのだ。解答しながら、あるいは解答を意識しながら読むのだ。
 ぼーっとしているというその姿勢を強制的に改めることにもなるだろう。

 所詮同じ問題です。完璧にできるようになるまで繰り返すぞ。
 記述は8割でOK、大人でも100パーセントは無理、短い試験時間であればなおさら、などというのは、入試問題での話であって、今の段階のレベルでは、完璧な答案が書けなければならない。

 毎日少なからぬ時間を食いそうであるし、効果が出るまでには一定期間がかかるだろうし、なのでぽーやんの抵抗は激しいものとなることも予想されます。

 しかし、やるときめたら、やる。
 読解問題の反復。

 とりあえず5年生の演習問題集群、回していくぞーーー。