国語力。読解力と,まぁ同義といえば同義だろう。同義でなくとも,どっちかがあってどっちかがないということはあまり考えられない性質のものだから,どっちでも良い。
というか,要するに読解問題が解ければいいわけで,区別する必要もなかろ。
他人が文字で書いたものを読み解くわけだから,漢字や言葉を知っていることが前提となる(だから,言葉と漢字は大事)。
論理的に書かれているものであれば,論理的思考がなければ文章について行くことはできない。
環境問題やら文化の比較やら壊れそうで壊れない友情やら何やら,書いてある対象やテーマに関する知識もしくは体験・想像力に裏付けられた共感力も必要になる。
こりゃ,腰をすえてやらないかん。
キーワードに印を付けるというのはずっと通用するだろうが,指示語に印を付けたり,傍線の近くを探すとか,そういう技術的なこと(だけ)では頭打ちになるだろう。
長女の受験勉強の時に今年の初めまで過去問をそりゃぁ,たくさん解いてきたけれども(男子校も含め,ほとんど全ての学校の問題に目を通した(好きですの。国語。わたくしは。それ以外の教科も,概ね解いてみましたのよ,わたくし。変な自慢ですがわたくしが書いたモノが入試問題の題材になったこともございますのよ。中学入試じゃなかったですけど)),付け焼き刃で合格点に至るまで解けるような問題なんて当然上に行けば行くほどない。
説明文ではカタカナ語がこれでもかとちりばめられ,大人でも読むのがおっくうになってくるようなのがたくさん出てくるし(しかもカタカナ語を多用する文章は大抵洗練されていなくて読んでいて心地よくもない),そうでなくても,筆者が創造した抽象的概念が主題となっていたりするなど,すんなり頭に入ってこないようなものも多くある。小説でも,宮沢賢治のビジタリアン大祭のような今の小学生に読解させるには酷であるというほかないものも多く出題されている。
もはや,読書百遍,意自ずから通ず
の精神で取り組むほかないのではないか。
もちろん,語彙を増やしていくということは別途やらねばならないし(だからやるってば。小学漢字に加えて,中学・高校漢字の読みを練習する(読めるから分かるに変わるようにしなければ意味はない)のが手っ取り早そう),記述問題の書き方には訓練も要するだろう。書くべきことを文中から拾い,並び替え,時に別の言葉に言い換え,適切な接続詞で結びつける,という作業。
しかし,根本は,文章を理解する力である。読んで分かるところまでたどり着くことさえできれば,読解問題の習得はその9割以上を終えたといっても良い。読解というのは,読んで問題を解くという意味ではない。文章を読み解く,という意味であり,それができれば問題を解く作業はおまけみたいなものだろう。
文章をよく読む。たくさんの文章を,咀嚼できるまで繰り返し読む。人に読み聞かせるように,正しい抑揚を付けて読む。人に理解させるように読むには,自分自身が文章を正しく理解しなければならないから,漫然と音読をするのみよりも高い効果が見込まれると期待したい。
これしか方法はないように思えてくる。
もちろん,読解問題を解くというのも並行してやっていくことも必要だろう。こういうのにもやっぱり勘所がないわけではない。また,決まった解法技術があってそれを習得するんだという方が,子ども受けも良いように思われる。文章を正解すれば良いのだといっても,そんな雲を掴むような話では目標が漠然としすぎていて,勉強しても無駄だと感じてしまうことが懸念される。幸い,分かりよいハウツー本はいくつもあるから,それに従って「解く」という作業をしているのだと意識させるのが良いかも知れない。
読む作業というのは,特に目標を告げずにやっていくしかない。読んでいたらそのうち国語力が付いてくるから,などと言っても,理解は得られそうにない。
読むものはどこから拾ってきても良いし,どの問題集でも一応頻出の対象を網羅しているし,予シリには良い文章もたくさん載っているから既に持っている予シリでも良いんだけど,予シリを文章読みに使ってしまうと問題演習の訓練の場が減ってしまうし・・・
4年生にとって背伸びをするような難易度の,質・量・一文章の長さがちょうど良く,間に設問があんまり挟まっていなくて読むのに都合が良く,見開きで一文章が載っているようなもの。
見つけました。公立中高一貫校適性検査対策問題集作文問題編。
読み合わせていくので,ぽーやんのとわしの分。2冊。よっしゃ,準備は整ったぞい。
ということで,たくさん,たくさん読むようにします。